2010年2月10日
矢文について
手紙を弓矢を用いて遠くから放ち、文書を送る手段の一つ。手紙を矢柄(やがら)に結びつける方法の他、蟇目(ひきめ)の穴の中に入れて射て飛ばしたり、鏃(やじり)に直接文を刺して、それを放つ場合もある。
矢文と言った行為がいつ頃から行われてきたのかは定かではないが、古代では紙は貴重なものであり、相当緊迫した状況でもない限り、ぞんざいには扱えなかったものとみられる。その為、紙の生産技術が向上していなかった日本の律令時代に矢文と言った伝達手段を行う事は少なかったものと考えられる。少なくとも17世紀初めの頃では盛んに矢文が用いられていた事が分かる。
紙の生産技術の発展以前にも、識字率の問題や文書と言った文化の普及度合いも矢文の歴史を知る上では重要となってくる。中世の東日本は西日本と比べると非常に文書史料が少ない。文字を書ける者が少なかったからだと解釈されがちではあるが、東国武士が西国に移住すると、たくさんの文書を残している。東国出身の熊谷氏は西国に移住してから文書を多数伝えているし、東国武士が多く移住した九州は中世の武家文書が多く残った地域となった。こうした考察からも、東国武士も、中世においては文字を書く事ができたが、中世武家文書の資料の多さ=文書の普及率から考えれば、東国より西国で矢文文化が生じた可能性が高い。それも東国武人が西国に移住してからと考えられる。加えて、応仁の乱をむかえると、戦乱を逃れた畿内の知識人が東日本に移住してくる例が増え、日本全体で識字率が高まる時期に移る。こうなってくると、上級武士でなくとも文を書ける下地が社会的に形成されてくる。同時に、各地で頻繁に戦乱が生じる時代(戦国期)へと移った事で矢文を用いる状況も増えた。武家社会の混乱が矢文文化を普及させた要因でもある。
矢取島(宿島)の島名由来伝説では、神代に、夫と別れた女神が自分の子に矢文を送ったと言う話がある。上述のように、紙の歴史を考えれば、後世に創られた話と考えられる。
中世では、互いに矢文を放ち、悪口を書いた文を送りつけ合ったうえで、合戦におちいったと言う話がある。交渉の為ではなく、挑発目的で用いられた(互いに罵倒しあったうえで合戦に入ると言うスタイル自体は、源平合戦の頃より見られる)。
江戸時代以前では、商人など武家以外の身分も矢文を盛んに用いていたが、江戸期に移り、武器規制が進むにつれ、矢文文化は武家に限られていった。
大坂の陣の際、真田信繁が片倉重長の陣に対して矢文を送ったと言う話がある。内容は、自分の子の婚姻の儀の申し入れ文を送ったとされる。
天草の乱の際、キリスタン南蛮絵師である山田右衛門作が矢文で幕府側と内通していたと言う話がある。
幕末を最後に矢文文化は廃れる事となる(廃れた一因として、通信手段の主流が機械化した事があげられる)。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
矢文は実際に行われていたのですね。時代劇だけのことかと思っていました。
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